優しさを素直に受け取れない人へ
こんにちは。ナナチル(@burytheold)です。
実はつい去年まで、私にはずっと悩んできたことがありました。
それは「人の優しさを素直に受け取れない」ことです。
誰かに優しくしてもらっても、
「なんでこんな自分に、ここまで良くしてくれるんだろう」
「優しさに釣り合わない自分が申し訳ない」
とか、
「信じたら裏切られてしまうのではないか」
と。
あまりにも臆病で、その優しさを受け取れないことがずっと悩みでした。
自分に向けられた優しさを受け取るのって、簡単じゃないんですよね。
自分があまり好きじゃない人にとっては、とくに。
優しくしてもらえばしてもらうほど、なぜだか罪悪感が募ってしまう。
え、こんな自分に?そんな、ごめんなさい…。
その優しさに釣り合わなくて、ごめんなさい。
何も返せるものがなくて、ごめんなさい。
なんて、思ったり。
あるいは、自分に向けられた優しさを信じることができなかったり。
勝手に裏切られることを想像して、勝手に拒絶したりして。
どんなに優しくしてもらっても、それを素直に受け取ることができなかったんですよね。
でも。
それが本当に、つらかった。
心のどこかでは、気づいていたんですよね。
「優しさを素直に受け取れない」こと。
これは、きっと正常ではないんだって。
この優しさを受け取れないことは、きっと本当は、自分にも相手にも損なんだって。
明らかに裏があるセールスマンならともかくとして。
本当に心から優しさを向けてくれる人に対して、勝手に謝って、勝手に疑って、勝手に拒絶することは、どんなに心無いことなのか。
本当なら受け取れるはずのこの優しさを、ついうっかり拒絶して、自分はどれほど損をしているのか。
一体どうすれば、この優しさを素直に受け取れるようになるのかと。
そう悩み続けていたのが、つい去年までの話。
え、今ですか?
今はですね、じゃんじゃん受け取ってます。優しさ。
溢れんばかりに貰いすぎてて、多分ちょっと勘違いも入ってると思います。
「いや、それべつに優しさじゃないから」っていうものまで、勝手に優しさカウントして受け取らせていただいてます。
じゃあどうやって、ここまで変化できたのか。
一番大きな理由は、自分で自分を許せるようになったことでした。
「こんな自分が、優しさなんて受け取っていいのか」
うん、いいんだよ。
「もし裏切られたら、どうするのか」
裏切られたって、いいんだよ。
自分の中の様々な「こうしちゃいけない」「こうあるべきだ」という固定概念に向き合うこと。
そして、「そうじゃなくたっていいんだよ」と許してあげた時、私はスッと肩の荷が軽くなりました。
「そっか、こんな自分でも、優しくしてもらっていいんだ」
「裏切られてもいいんだ、死ぬわけじゃなかったんだ」
と、申し訳なさや疑いの荷が降ろせた時、私は優しさを素直に受け取れるようになりました。
ああ、この生きづらさの原因は、誰か人のせいでもなく、自分で自分を縛り付けていただけだったのだと気づいたんです。
べつにね、はじめから100%許せなくたっていいと思うんです。
潔くそれができちゃう人は、そうしたらいいけれど。
でも人は、いっぺんに丸っと変化することはなかなか難しいから。
だからもし変わりたいと思う人は、ほんの1%、2%からでも、自分を許すことに挑戦してみたらいいと思います。
今、自分を縛り付けている考え方は何なのか。
自分の中の「こうあるべき像」は何なのか。
まずはそれにしっかり向き合ってあげて、ただ一言「そうじゃなくてもいいんだよ」と話してあげること。
まずはその実践が、自分を変える大きな第一歩です。
「いやでも…」
「そうは言ったって…」
そんな考えが浮かんでくるなら、紙に全部書き出してみてください。
そうすると、意外となんでもないことばかりだったりするものです。
「大丈夫、大丈夫」
そうやって段々と自分を許してあげるうち、優しさも幸せも素直に享受できるようになっているかもしれませんね。
コンプレックスの塊だった私が、ナルシストになったら生きづらさを克服した話
こんにちは。ナナチル(@burytheold)です。
ところで皆さん、ナルシストってどう思いますか?
ウザい?キモい?関わりたくない?
実は、私は結構好きです。
リアルでもアニメでもそういう人っていると思うんですけど、私は意外と嫌いじゃないんだな。
「私は美しい。そうでしょ?!」って押し付けられちゃうと「お、おお…」って感じだけれども、べつに押し付けることもせず、自己完結型の無害なナルシストならいいんじゃないかなって。
むしろ、自分で自分を肯定できるのって素敵だなと思います。
というか、私の親友がナルシストなんですよね。
どんな子かというと、私が落ち込んでると「大丈夫?私のかわいい写真いる?」って励ましてくるような親友。
「いや…そんなんいらんし……」と思いつつも、つらい時にはその明るさに何度も助けられてきました。
そして、そんなナルシストな親友に感化されたのか、気づけば私もナルシストに。
今日はそんな私が、ナルシストになって生きづらさを克服した話をしたいと思います。
私がナルシストになったきっかけ
まあ、先の親友が影響していることは言うまでもないですね。
けれども、私は元々コンプレックスの塊でした。
自分の性格も好きじゃないし、見た目にもコンプレックスがありました。
ダサいしモサいし、かわいくない。
お化粧もファッションも、よく分からないし。
だからせめて写真写りだけでもなんとかならないかなと思って、鏡を見ながら表情の練習してみたのが、ナルシストになるきっかけでした。
毎日毎瞬間かわいく生きるのなんて、無理。
それならせめて、記録に残る写真だけでも、ちょっとはマシに写りたい。
そんな思いで、鏡の前で何度も何度も表情を練習して、角度を変えたり、色々なポーズをとってみたりしました。
そうしたら、発見してしまったのです。
自分がちょっとかわいく見える角度を。
その時、思わず口からぽつりと一言、つぶやいてしまいました。
「かわいい…」
と。
自分で何を言ってるんだと思われるかもしれませんが、本当にうっかり出てきちゃいました。
そして、自分で言っておいて自分でパニック。
え?なぜ?これまでコンプレックスだらけで性格にも見た目にも自信がなかった私が、なぜ今自分を見て「かわいい」なんて言ってるの?頭おかしくなったかな?みたいな。
そんなプチパニックを起こしつつ、けれどもその時、私の心は少し軽くなったんです。
自分で自分を認めるって、気持ちいい。
そんなあたたかさが、胸にじわりと感じられた瞬間でした。
ナルシストになったら、生きづらさを克服していた
そんなきっかけの元、ナルシシズムの味を覚えた私は、徐々に自分をほめること、認めることを生活の中で繰り返してみました。
ちょっとよくできたことがあると「私、すごい。天才」。
うまくいかないことがあっても「こんなこともあるよね。でも私はかわいい」。
という感じで。
このように他人には絶対聞かれたくない言葉で、些細なことから大きなこと、うまくできたことからできなかったことまで、生活の至るところで自分をほめる実践をしてみました。
ほんと、心の声って聞かれないから便利だよね。
そんなことを続けて数ヶ月…。
気づけば私も、立派なナルシストになっていました。
そしてナルシストになった感想は、
「なかなか悪くない」。
ナルシストになれば、生活の至るところで自分が自分をほめてくれます。うむ、悪くない。苦しゅうない。
むしろ、毎日をものすごく気分よく過ごせるようになりました。
しかもナルシストになると、べつに誰がほめてくれなくたっていいんですよ。自分が自分をほめてくれるから。
だから、いつの間にか承認欲求もなくなりました。
悪口を言われたって、ほとんど傷つかなくなりました。
「へーそうなん。でも私、かわいいし」みたいな。
もちろん批判はしっかり聞きますけど、おかげで心無い悪口には一切揺らされなくなりました。
ナルシスト万歳。
生きづらさを克服するために
つまるところ、生きづらさの要因の大きな一つって、自己肯定感のなさなんですよね。
他人がどんなにほめてくれて、認めてくれても、自分が自分を認められなきゃ苦しい。
逆をいえば、他人がどんなにほめてくれなくて、認めてくれなくたって、自分が自分のことを分かってあげ、認めてあげられれば、心はずっと楽なんです。
だから、生きづらさを克服するためには、どんなに些細なことでも自分を認めてあげること。
これが大事なんだと思います。
何か大きなことだけじゃなくて、とても些細なことでも自分を認めてあげ、ほめてあげること。
うまくできた時だけじゃなくて、うまくできなかった時にも自分を分かってあげ、認めてあげること。
なかなか自分を好きになれない、自分を認めてあげられないという人は、ぜひこのことを実践してみたらいいと思います。
長年の考え方を変えることは、一朝一夕でできることではないけれど。
それでも、考え方なんて要は癖なので、繰り返し繰り返し考え続ければ、いくらでも変化させることができます。
生きづらい考え方を、もっと生きやすい考えへ。
ナルシストまでいかなくても、自分で自分を少しでも認めてあげられるようになったらいいかもしれませんね。
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24回目の誕生日 感謝と過去と現在と。
こんにちは。ナナチル(@burytheold)です(・Θ・)
実は今日で24歳になりました!
わーいドロンジョ様と同い年だぁ!笑
と、いうツイートをしたのが今朝6時の話。
そしてしばらく経った朝7時頃、つい出来心でTwitterを開いてみたところ......。
………お?
お、おお.........?!メッセージ128件.........?
うそやろ.........?え、ほ、ほんとに.........?
そんな、みんな、こんなにも...あったかいメッセージで...お祝いしてくれるなんて......
う、うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおとおおおあおおお!!!!!!!
ありがとおおおおおおおおおおおおおおおおおおあとおたあおとおお!!!!!!!!(ゴリラ泣き)
ほんとのほんとに、うれしいです...!!
なんかもう、語彙力ないけど、うれしくてたまらないです…!!!
お祝いをしてくださった方々、
いつも読んでくださる皆さんに、
心から 心から ありがとうございます。
ふう、よし、落ち着いたぞ...。
(取り乱してごめんね)
ところで誕生日といえば、
振り返ってみるとこれまで半分くらいは、涙の思い出ばかりでした。
涙って、嬉し涙?
ううん、悲しくて。
誕生日の前とか、誕生日の日に限って、
なんだか悲しいことがたくさんあって。
誕生日なのに、ビンタ&正座でお説教をくらったりとか。
おじいちゃんおばあちゃんとバースデーケーキを囲んでいたら、包丁持ったお母さんが「死んでやるーー!」って乱入してきたりとか。
...うん、色々…色々あったね…(遠い目)
あとは、お父さんもお母さんも、誕生日前の8月に遠くへいっちゃったしさ。
でもね、こうしたつらいことって、
その当時は死ぬほど苦しかったとしても、
乗り越えてしまえば案外大切な思い出や、笑い話になったりするんだよね。
人間、生きてる限りは、子どもだろうと大人だろうと、いくつになってもつらいことにはドンドン直面していく。
その都度その都度、ぶつかっていく問題があって。
その都度その都度、乗り越えながらまた進んで行くのが人生だ。
だからね、たとえ今はつらいこと・難しいことがあったとしても、
それは5年、10年経って振り返ってみたら、その頃には笑い話になっているかもしれないなって。
「あはは、確かに、あの頃は死ぬほど苦しかったんですけどね〜」
「でも、あの時のもがきがあったからこそ、今がある」
「今となっては、そう思えるようになりました」
なんてさ。
案外、未来の自分はケロッとした顔で振り返っているのかもしれないなと思うんだ。
だから、今目の前にある大きな問題も、そこまで難しく考え込まなくてもいいんじゃないかな。
それは、つらい現実を軽んじろっていう話じゃなくて。
ただ、目先の問題ばかりを見て頭をこじらせるくらいなら、
たまにはそれを乗り越えた先の未来を妄想してみてもいいんじゃないかなって。
そうしたら、現実は変わらなくても、
心は少し前向きになれると思うんだ。
今、私は、ほんとのほんとに幸せだ。
毎日、本当にいいのかなってくらい沢山のものをもらっていて、感謝してもし尽くせない日々を過ごさせてもらっていて。
これは決して、綺麗事じゃないんだけど。
伝わるかな、伝わるといいな。
もちろん、今もつらいこと大変なことが時にはあるけれど。
アダルトチルドレンを克服したって、悩むことやもがくことは沢山あるけれど。
でも、小さかったあの頃。
親にさえ誕生日を祝福してもらえなかった幼い私は、
近い未来、自分がこうして顔も知らない人たちから沢山の祝福をもらって生きるようになるなんて、
考えてもみなかったと思うんだ。
誕生日はほろ苦いものだと思ってた自分が、
こんなにもあたたかい心で新しい歳を迎えられるようになるだなんて、思ってもみなかったはずなんだ。
だからね、もうつらいことがあっても、大丈夫。
その時は、たくさん泣いてもがいて苦しんでも。
その先の未来には、今よりもっと素敵に笑う自分がいるはずだから。
だからこれから先も、
〈今〉だけを見て立ち止まらずに、
〈未来〉を見て前進していきたいなと思うんだ。
私がTwitterやブログを使って発信し始めたきっかけは「はじめに」でも書いた通り。
「今も生きづらさを抱えている人たちが、自分らしく生きられるように」と。
日々そんな思いでポチポチ発信しているけれども。
でも、人のためといいつつも、支えられているのはやっぱり私の方だったんだなと。
そう実感した、9月13日でした。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます(*^^*)
報われなかった心の行き先
報われなかった心はどこへ行くのか。
報われなかった努力はどこへ行くのか。
人は、どんなに愛しても応えてくれるとは限らない。
夢は、どんなに努力しても叶うとは限らない。
「夢は必ず叶う」だとか、
「どうせ叶わないんだから諦めろ」とか、
どちらも無責任過ぎて言えないよ。
どんなに愛しても、愛してもらえなかったことがある。
どんなに努力しても、叶わなかった夢がある。
これは卑屈なんかじゃなくて、悲しいけど、事実だからさ。
***
それは、私がまだ幼かった時のこと。
お酒の匂いが充満する部屋。
ゴミだらけのお家。
そんな中、私は母が寝ている間に、
シンクに山のように積まれていた食器たちをまとめてこっそり洗ってやった。
きっと、寝て起きたらあの食器の山がきれいさっぱり片付いていて、母は驚くに違いない。
そしたらきっと、私をほめてくれるに違いないだろう、と期待に胸を膨らませた。
だから私は、何も言わずにじっと待っていた。
母の様子を横目に見ながら、気づいてくれるのは今か今かとワクワクしていた。
けれども。
けれども、母は何も言わなかった。
食器が片付いていることに、気づくことさえしなかった。
そうしてしばしの間だけ起きて、
またお酒を飲んで、
またすぐに眠ってしまったのだった。
そっか、そっか、
そんなことって、あるんだなぁ。
私の努力はどこへ行ったのか。
どこへ消えてしまったのか。
行き場をなくした期待と、少しのうわついた心。
悲しかった。
でも、悲しいとも言えなかった。
気づいてほしかった。
でも、気づいてほしいとも言えなかった。
何も言わなくたって、私に気づいて、私を見てほしかった。
ただ、それだけだったのに。
そんなことさえ、かなわないのだなぁ。
***
報われなかった努力は、どこへ行くのか。
どこかへ消えて、なくなってしまうのか。
消えてしまうのはいやだなぁ。
かわいそうだなぁ。
自分の小さな、小さな努力。
こんなちっぽけな努力だとしても、
やっぱり、誰にも気付かれずに消えてしまうのは、悲しいよ。
でもね。でも。
愛したこと、努力したことは消えたりはしない。
確かに報われないこともあったけど、消えてしまったわけじゃない。
愛したこと、努力したこと。
人は報いてくれなくても、努力した事実は自分に報いてくれるから。
誰かのために何か一つでも行ったこと、
真心を込めたこと、
それは見えない自分の栄養になって、
自分をもっと素敵に作ってくれる。
真心は目に見える血となり肉となるわけではないけれど、
目に見えないもう一人の自分の血となり肉となってくれるんだ。
誰に見向きされなくとも、
続けた努力や真心は自分をしっかり作ってくれて。
いつか、そんな自分の見えない本当の姿を見つけてくれる人に出会えるから。
人に報われなかった努力は、消えたりはしない。
今日も見えない自分の姿を、きれいに作って輝かせてくれているんだ。
私が病気になった意味
こんにちは。ナナチル(@burytheold)です。
今日は私の闘病体験について、
そして病気を通して学んだことについて
綴りたいと思います。
病気になる理由は、人それぞれ。
けれども、私の場合はなるべくしてなったと思っています。
自分が病気になったのは、なぜなのか。
この病気には、何の意味があるのか。
今も心身の病にもがく人に、何かを届けられたら幸いです。
病気のはじまり
私は2015年冬、ある日突然、体が動かなくなりました。
夜寝て、朝起きてみると、体が起き上がらない。
なんで?どうして?
ひとり布団の中で困惑しながら体を動かそうとするも、起き上がるどころか手足もほとんど動かない。
そんな状態で固まっていたところ、当時一緒に住んでいたルームメイトが起こしにきてくれて、やっと助けを求めることができました。
彼女に起こしてもらった私はかろうじてスマホを取ってバイト先にお休みの連絡をし、
その日は結局、ルームメイトに起こしてもらったり食べさせてもらったりしながら一日を過ごしました。
ところが、この状態は一日では終わりませんでした。
次の日も、その次の日も、同じように体が動かない。
これはマズいということで病院に行くと、適応障害と診断されました。
医者「ナナチルさんはね〜、うつじゃないんだけどね〜。
あえて言うなら適応障害かな〜」
先生、そんな、テキトウな。
でも、適応障害がピッタリかは置いておいて、自律神経を著しく損なって病気になったことは間違いありませんでした。
原因は、色々。
当時大学2年生で、
4年間の学費を自分で返済するために月10万円分のバイトをしていたこと、
特待生維持のために日々の勉強や期末テストで追い込みをかけていたこと、
家庭のイザコザやトラウマ。
そして何より、大嫌いな自分を無理矢理に変えようとしていたこと。
こういった様々な負担が積み重なった末に、どうやら私の神経は耐えきれなくなってしまったようでした。
闘病生活のもがき
倒れてからは、見えるもの感じるもの、世界のあらゆるものが一変しました。
当たり前にできていたことが、できない。
寝ること、食べること、こんなにも「普通」のことが、今の私にはできない。
このことが、どれほど悔しくもどかしく、情けなくてたまらないことなのか、
私は倒れるまで考えたこともありませんでした。
あの人この人には当たり前にできることが、私には、できない。
こんな自分が、何で生きているんだろうとまで思いました。
けれども、もがきの中には、宝物があるもので。
このもがきの生活は、私にとって人生最大の苦痛でもあり、最高の学びに気づかせてくれる機会にもなりました。
病を通して学んだこと
人の心情がわかるようになった
病気になって学んだことは様々ありますが、最も大きなことは2つあります。
まず1つ目は、人の心情がわかるようになったことです。
もちろん、全部ではありません。
私に分かるのは、その人の心のうち、氷山の一角のようにごくほんの一部だけ。
けれども、自分が倒れる前よりは、人の心や痛みに対して少しでも理解できるようになりました。
というのも、病気になる前の私は、うつ病の方に善意100%で叱咤激励をするようなタイプの人間だったのです。
「実は最近力がでないんだ...」という人や、
「普段中々体が動かないけれど、今日はがんばって外に出てきたんだ」という人に対して、
「え〜!力が出ないなんて言わないでくださいよ〜!」とか、
「大丈夫ですよ!○○さんならできますって!」とか、
「これからもがんばりましょ〜!」とか。
そういったことを、平気で、言ってました。
そして、多くの場合、そういった善意の押し付けが相手の心を傷つけているのだと気づいたのは、自分も倒れた後のことでした。
倒れてはじめて、体が動かないことのつらさを知った。
倒れてはじめて、心が思い通りにならないことの痛みを知った。
倒れてはじめて、世の中には本当にどうしようもなく、体と心が自由にならない人がいるのだということを知った。
そして、そういった人たちの心を分からずにかける一言一言が、たとえ善意であれ悪意であれ、ナイフのような凶器になりかねないのだということを知った。
「がんばれ」という一言ががんばれない自分の胸を裂き、
周りの人が腫れ物のように接してくるのを見ては「私を特別扱いしないでくれ」という理不尽な怒りがこみ上げてくる。
期待されても負担だし、気を遣われても苦しくて、自分でもどうしたらいいのかわからなくなる。
けれども、そういった言葉にもならないもどかしさを感じられたことが、私にとって大切なことだったのだと思います。
人の心や痛み、もがき。
それはやっぱり、自分が体験してみないとわからないこと。
倒れるまではわからなかった人の心に、病を通して少しでも歩み寄れるようになったことは、私にとってとても意味深いものとなりました。
何もできない自分の価値を悟った
そして2つ目に学んだことが、“自分の価値”についてでした。
私は昔から自己肯定感が低く、いつも誰かに認めてもらうことを追い求めてきました。
人に認められるために勉強をして、人に認められるために無茶をして、「何かができる自分」を必死でアピールしてきたんです。
けれども、病はそんな私に大きな試練を与えました。
「何か」どころか、「何も」できない毎日。
「褒められること」をしてこそ愛されると思っていた私にとって、それはあまりにも大きな苦痛でした。
「何もできない自分」に、価値なんてあるのか。
来る日も来る日も考えて、
何度も何度も声を殺して泣きました。
けれども。
そうして一人で押しつぶされそうになっていた時、私を支えてくれる様々な優しさに出会うようになりました。
「何もできない自分」に向き合ってくれる人。
自分で自分を諦めそうになっても、私を諦めないでくれる存在。
自分が何もできなくたって愛し支えてくれる存在は、実は確かにそこにあって。
ただ、自分が分かろうとしていなかっただけなのだと、身をもって気づかされました。
特に高校時代に出会った恩師は、こんな状態の私に毎日手紙を送ってくださり、何千何万もの言葉で支えてもらいました。
「何ができるできないは、関係ない。
ただ、あなたがあなたでいるだけで価値があるんだ」
と。
そうか、そうだ、そうだったんだ。
私は病気だろうと、何もできなかろうと、他の誰とも代えられない人間なんだ。
「何かができるから」じゃなくて、自分という存在そのものに価値があるんだ。
きっとこの言葉は、私が病気でもなく健康で、何でもできるスーパーマンだったなら響かなかった。
病気になって、
「何もできない自分」に向かい合って、
たくさん泣いて、
たくさんもがいたからこそ、
この言葉の本当の意味を、自分のものにできるようになったのだと思います。
最後にー今も病と闘う人へ
病気になる理由は、人それぞれだと思います。
先天的なものとか、人間関係とか、不摂生とかその他諸々。
でも少なくとも私の場合は、なるべくしてなったなと思っています。
現在、私は約2年間の闘病生活を経て病を克服しましたが、病気になったことで気づかせてもらった事は本当に山ほどあって。
ああ、これを学ぶために私は倒れたんだなっていうのが個人的には一番しっくりきています。
全ての人がそれと同じだとは思わないけれど、
でも、病気を通して学べること・得られることは、きっと誰しもあるのだと思います。
倒れたからこそ見える景色があって、
倒れたからこそ気づけるものが、きっとある。
人生の道を行きながら、つまずくことは山ほどある。
けれども、自分をつまずかせた石をなんだと思って拾ってみたら、それが実は宝石の塊かもしれない。
倒れた、転んだ、もうダメだといって泣いてばかりいないで、倒れた先に見つけた何か一つでも掴んで立ち上がれば。
それが、自分にとってかけがえのない宝物になることもあるから。
そうやって“もがきの宝”を見つけた時に、全ての涙や痛みも意味あるものに変わるんだと思います。
逃げられない時はどうすればいいの?変えられない人間関係や環境への対処法。
こんにちは。ナナチル(@burytheold)です。
こちらの記事は、昨日の記事の番外編として書きました。
▼昨日の記事はこちら
家庭や学校、職場やその他諸々。
生きづらさを感じる環境や人間関係って、ゴロゴロありますよね。
もちろん、そこで耐え忍ぶことで得られるものがあったり、成長できたりする場合もあるけれど、
もし、それが死ぬほどつらい状況なら、私は“逃げてもいい”と思ってます。
けれども「逃げてもいい」と発信すると、
「じゃあ逃げられない人はどうすればいいんですか?」とよく聞かれます。
ふむ、なるほど、逃げられない人。
確かに、みんながみんな環境や人間関係を変えられるとは限らないよね。
そこで、今回は「逃げられない人の問題解決法」を2つ紹介したいと思います。
解決法1:
本当に逃げる道はないのか?
自分の固定概念を壊して探してみること。
まず、大前提として「逃げられない」という人には3パターンあります。
1.逃げられる状況にあるのに、自分で逃げられないと決めつけているパターン。
2.逃げ道はあるけど、知らずに損してるパターン。
3.本当に逃げ場がないパターン。
この3つです。
統計を取ったわけではありませんが、
実のところ3のパターンというのはごく稀で、
逃げられない人の多くは1と2に属しているのではないでしょうか。
本当は逃げられるのに、人目や環境の変化を恐れて「逃げられない」と思い込んでしまっている人。
本当は逃げられる道があるのに、情報を知らずに他の道がないと思っている人。
もしかしたら、心当たりのある人もいるかもしれません。
まず1のパターンの人は、
自分の中の「こうあるべき」「こうしてはならない」といった固定概念を打ち壊してみてください。
たとえば学校なら、
「学校にいかないと勉強についていけない」とか
「学校にいかないと一生友だちができない」とか
「不登校は絶対にしちゃいけないことだ」みたいな決めつけを、
一旦とっぱらってみてください。
もちろん、多少めんどくさかったり、大変だったりしても、学校に行けるなら行ったらいいと思います。
けれども、いじめや人間関係などで死ぬほど苦しんでいるのに、自分を殺してまで行く必要はありません。
義務教育ならどんなに学校へ行かなくても卒業できるし、高校なら通信制を選ぶ道もある。
勉強は家でもできるし、友だちだって学校以外にも作ることができる。
まあ、こんな感じで、学校に行かなくてもなんとかなるもんです。
ちなみに私もなんとかなりました。
本当にやっかいなのは、「こうあるべき」「こうしてはならない」という自分自身の固定概念。
まずはそれをとっぱらうことからできたらいいのかなと思います。
そしてパターン2、
逃げ道があっても知らずに損してるタイプの人は、
とにかくまずググること。人に相談することです。
つまり、問題を1人で抱え込まずに、外部から答えを探すことをおすすめします。
追い詰められた人の何が怖いかというと、とにかく視野が狭まることです。
「自分はここでしかやっていけない」
「ここから逃げたら、他に居場所がない」
と。
人は肉体的・精神的に追い詰められるほど、このような思考に陥りがちです。
でも、本当にそうでしょうか?
その学校をやめたら、本当に他の居場所はありませんか?
その会社をやめたら、本当に他の職場はありませんか?
答えは「いいえ」です。
自分を潰す環境もあれば、自分を生かす環境もある。
そんなのないという人は、まだそれを知らないだけです。
だから、まずは問題を1人で抱え込まずに、なんでも調べてみましょう。
ネットで検索、本で調べる、信頼できる人や然るべき機関に相談してみること。
家庭や学校、職場の問題については、一言調べるだけで無料相談できるところがいくつも見つかります。
自分1人で解決できないのなら、外に答えを求めればいいんです。
そうすれば、より良く続ける方法からより良くやめる方法、支援制度や新しい環境まで、様々な選択肢が見えてくると思います。
それで一通り情報を得て、それからのことは自分が決断しましょう。
誰がなんと言おうと、自分の人生自分のものだから、自分にとって後悔のない選択ができればそれでOKです。
使えるものはフルに使って、自分の選択肢を広げていくこと。
自分の見える範囲だけで勝手に決めつけて、世界を狭めないこと。
これが大切なんだと思います。
ところで、こういう話題になると
「学校(会社)は無理してでも絶対に行くべき。
その程度でやめるくらいなら、どこいってもやっていけないゾ」
とかいう横槍を入れてくる人がいます。
そんな人に一言。
うるせぇ〜〜〜〜〜〜〜
知るか〜〜〜〜〜〜〜〜(二言)
お前に何が分かるんだって話です。
「“絶対”行くべき」とは、なんの権限があって言う言葉なのか。あなたにその言葉の責任は取れるのか。
そんなの、決めるのはいつだって本人次第であって、わけも分からないよそ者が人の人生決めつけていいわけがないんです。
そして、人の痛みを「その程度」と表現することも非常によろしくありません。
痛みの感じ方は、人それぞれ。
それを勝手に自分の基準で計ってランク付けて他人に押し付けて。
その心無い一言がどれだけ人の心を抉るのかを、知らないのかと。
そんなわからず屋の言葉は、全く聞かなくてOKだと思います。
聞いてやる価値も傷ついてやる価値もなしってね。
解決法2:
どうしても人や環境を変えられない場合には、自分を変えること。
パターン1と2について紹介してきたので、最後にパターン3の対処法をお伝えしたいと思います。
パターン3、本当に逃げ場がない場合は、一体どうすればいいのか?
人間関係も環境も、すぐには変えられない時の対処法は何なのか?
その答えは、自分を変えること。
具体的には、自分の考えを作り変えることが答えです。
たとえば動物も、進化することで過酷な環境を生き抜いてきた歴史があります。
人間だってそれと同じことです。
人間の場合は、自分の“考え方”を変えれば、それができます。
自分の“考え方”を、過酷な状況環境にものともしないように作り変えること。
人は、同じ環境、同じストレス下におかれても、それぞれの考え方によって感じ方が異なります。
もっとわかりやすいのは、
同一人物が同じ環境、同じストレス下におかれたとしても、自分のその時々の気分や年齢によって受け取り方が変わるということです。
たとえば、子どもの頃は道で転んだだけでわんわん泣いていたけれど、大人になったらそれくらいじゃ泣かなくなりますよね。
あとは、ひどく落ち込んでる時には外出することさえ負担になるけれど、
自分の心が満たされていて、パワーが有り余っている時にはいくらでもおでかけできたりとか。
こんな感じで、人はその時の年齢や気分によっても、ストレスの感じ方が変わってきます。
だから、もしあなたが苦痛を受けている環境や人間関係からどうしても逃げられない場合には、自分の“考え方”を新しく作ることをおすすめします。
具体的には、
理不尽な言葉や仕打ちを受けた時に落胆するのではなく、「お前絶対見てろよ、見返してやる」と自己成長のモチベーションにしたりとか。
「陰口・悪口なんて気にしなくていいや〜」と達観できるまで、自分で自分を認めてあげることだとか。
こういった考え方を変える方法については、調べてみたら色々とあると思います。
ちなみに、陰口・悪口を気にしなくするためのマインドはこちらの記事に書いてみました。
www.nanachiru.com
私もより生きやすい考え方については、今後もブログやTwitterで色々発信していきたいなと思ってます。
拙い言葉ですが、何か一言でも誰かの心に届けば幸いです。
ところで聞いた話によると、
森三中の大島さんは小学校3年生から中学2年生までいじめにあっていたそうですが、
「ドMになっていじめられるのを喜びに変えること」で乗り越えたそうです。
なるほど、その手があったか...。
大島さん、強い。
▼関連記事はこちら
【逃げの哲学】“逃げる”とは、もっといい環境への“お引越し”。家庭も職場も学校も。
こんにちは。ナナチル(@burytheold)です。
昨日、何気なくニュースを見ていたら、子どもの自殺についての記事を目にして。
「子どもの自殺が増えるのは、夏休み終盤の8月下旬から2学期が始まる9月上旬頃」と。
そうか、そうなのか…。
自分も死に損ないの身としては、人ごとのように思えなかった。
今の社会、生きづらさに年齢なんて関係なくなっちゃったんだよなって。
学校、それほどにも苦しいなら、
行かないのも全然アリだと思う。
かくいう私も、小学校の1/5くらいは行ってない。
「私も大丈夫だったから、皆も!」っていうのは乱暴だけど、
「行かない」って選択肢で実際生きてる人がいることは伝えたい。
あと、それは学校だけじゃなくて。
家庭や職場、あらゆる環境において、もう耐えられないほどの限界を感じている人には、
その環境から“逃げる”という選択もあるんだと知ってもらいたい。
ま、“逃げる”っていうとかっこ悪いけど、
要はもっといい環境への“お引越し”だよね。
人間、何も今いる環境だけで生きなきゃいけないわけじゃない。
人はついしんどくなると視野が狭まって、「私はここでやっていけなきゃ終わりだ」と決めつけてしまったりするけれど。
自分が見ている世界は、世界の全てではなくて、ほんの一部に過ぎない。
その狭い世界だけをみて、
自分には居場所がないと決めつけないで。
たとえ学校でいじめられても、
世界にはあなたが生きられる場所が別にある。
たとえ職場で失敗続きでも、
世界にはあなたの個性が生きる場所が別にある。
たとえ家族が愛してくれなくても、
世界にはあなたを認めてくれる人が他にいる。
世界は、自分が思っているよりも、ずっと広いから。
たとえば、今絶賛火事真っ只中の家があるとして。
そこで誰も助けてくれないからといって、「ああ、私はここで苦しんで死ぬ運命なんだ」なんて諦める必要はないんだ。
確かにそこを抜け出すのは簡単ではないかもしれない。
けれども、歯を食いしばって脱出すれば、外には生きられる場所が待っている。
息苦しい煙りのない、新鮮な空気。
自分を助けてくれる人々。
傷を癒してくれる存在。
焼けてしまった家とは別の、新しい家。
ただ外に出さえすれば全く別の世界があるのに、
今いる環境のせいで外の世界まで諦めてしまうのは、もったいないよなって。
「どうせここから出ても無駄だろう」
そんなの、実際に出てみなきゃわからないじゃないか。
確かに、今いる環境を抜け出して別の場所へ行けば、もっと酷い目にあうこともあるかもしれない。
転校先の学校でもっといじめられるかもしれないし、転職先の職場はもっとブラックかもしれない。
確かに、そう考えると怖いけど。
でもやっぱり、それは世界の全てじゃない。
自分を潰す環境もあれば、
自分を生かしてくれる環境もある。
自分を否定する人もいれば、
自分を認めてくれる人もいる。
それは、紛れもない事実だから。
そんな環境なんてない、
そんな人なんていないというなら、
それはまだ出会っていないだけなんだ。
自分が今見ている世界が、全てじゃない。
10年生きても、30年生きても、100年生きたって、まだまだ知らないことだらけの人生だから。
もし、今苦しい人がいるのなら、
どうか今見ている世界だけを見て、諦めないでほしい。
この広い世界には、生きられる場所なんていくらだってある。
ただ、自分がそれを知らないだけだ。
今はまだ、知らないだけだから。
そして最後に、もう一つ。
今の環境を抜け出すのには、きっと、周りの人には到底わからないほどの勇気がいる。
覚悟がいる。
それをしんどく思う心もあるかもしれないけれど。
でも、それと同じくらい、
全てを諦めるのにだって覚悟がいるじゃないか。
同じ覚悟をするなら、せめて生きる覚悟を選んだっていいんじゃないのかな。
生きる覚悟は何度だってできるけど、
死んだら何もかも、もう取り戻せないから。
どうせ逃げるなら、
生きることから逃げないで、
今いる環境から逃げ出せばいい。
生きる場所を見つけるには、
もしかしたらものすごく時間がかかるかもしれないし、案外あっさりたどり着くこともあるかもしれない。
全てを諦めるのは、
そうやって世界中を自由に旅してみてからでもいいんじゃないかなってね。
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