もちもちアダチルちゃんブログ

元アダルトチルドレン=略してアダチルの24歳が運営する「生きづらさの克服」をテーマにしたブログです。でもハンドルネームはナナチル。 ペンギンが好き(・Θ・)

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陰口・悪口への対処法~自分を攻撃する人への一番の復讐は○○~

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「ちょっと○○さん、話があるんだけど」
「お前はこんなこともできないのか」
「ねえ聞いた?○○さんって実はね...」
「コソコソ、ヒソヒソ、クスクス...」


陰口・悪口って、どこの世界にもありますよね。
職場や学校、家庭やご近所の井戸端会議、さらにはネットの世界に至るまで。 

 


なんで人って、人のことをこんなに悪く言うんだろう。
悪口って、言わないと生きていけないのかな。

ってくらいには、この世界は陰口・悪口が溢れかえっていると思います。

 

 

でも、言われる方はたまったもんじゃないし、人の悪口だとしてもずっと聞かされるのは中々気持ちのいいものではないですよね。

 

そこで今回は、

そんな陰口・悪口を言う人への対処法

とりわけ自分が標的にされてしまった時の対応策について書こうと思います。

  

 

 

 

 

 

1.陰口・悪口への対処法は?


(ⅰ)気にしないこと

 

結論からいうと、陰口・悪口への一番の対処法は、とにかく気にしないことです。

ありきたりな回答ですみません。

 

でも、これが一番なのは間違いありません。

傷ついても、反論したくなっても、気にしないようにすること。

 

 

そもそも、世の中にはあなたが何を言っても嫌う人は必ずいます。

それに対して「私の何がいけなかったのかな...」と落ち込んだり、「なんだと!」と言って憤る必要はありません。

 

自分が正しいことを言おうが間違ったことを言おうが、反対してくる人は必ずいる。
これはもう、そういうものなのだと割り切ってしまうことをオススメします。

 

その方が一々相手の言動に振り回されるより、ずっと楽です。

 

 

ちなみに、反対してくる人にはどんな人がいるかというと、
たとえば、とにかく誰でもいいから悪口を言いたいだけの人

 

これはもう100%気にする必要がありません。


そういう人は、あなた以外の人にも悪口を言っているので、自分に責任を感じたり傷ついたりするだけ損になります。

 

 

また、自分とは根本的に価値観が異なっている人
考え方やものの捉え方が別次元にいる人の悪口も、気にする必要はありません。

なぜなら常識が違いすぎて、どんなに議論したところで通じ合えないから。

 

なので、

 そういう人たちのことは、宇宙人と思えばいいです。

 

「私とあの人は、違う星の人なんだな。
それなら、分かり合えなくても当然だな」

って。それくらい割り切れれば、無駄な争いを避けられます。

サンは森でわたしはタタラ場で。

 

 

特に悪口を言いたいだけの人には、何を言っても無駄です。


彼らの目的は、理論的な批判ではなく、ただとにかくケチをつけたいだけ。
言っちゃ悪いけど、ぶっちゃけ考えが幼稚なんですね。

 

そのため、こちらが誤解を解こうと理論立てて説明をしたり、誠実な対応をしたところで、彼らにはほとんどの場合響きません。
一つ解決すれば、また別の文句を見つけてぶつけてくるだけです。

 

 

だからとにかく、そういった人たちには、

構ってあげるだけ時間の無駄。

 

 

そんな時間があれば、むしろ自分を支えてくれる人たちへの感謝を伝えたり、自分のすべきことに使えばいいだけの話だということです。

 

 

 

(ⅱ)例外:気にすべき人

 

陰口・悪口への一番の対処法は、気にしないこと。
ただし、例外として気にすべき人もいます。

 

それは、理論的にきちんとした批判をしてくれる人のことです。

 

 

そもそも悪口と批判とは全くの別物なのですが、「自分に反対する言葉」として一括りにしてしまう人も少なくありません。
これにはしっかりと気をつける必要があります。

 

 

悪口は、他人を悪く言うこと。相手をけなすこと。


これに対して批判は、間違ったものを正すために意見を論じることです。

 

 

悪口は何の生産性もないので聞くだけ無駄ですが、

批判は自分に気づきを与えてくれたり、視野を広げたりしてくれます。

 

つまり、批判は自分のためになるので、ぜひとも耳を傾けた方がいいということです。

 

 

また、時には感情的な批判もありますが、理論的にきちんとした批判をしてくれる人は、こちらの話にも聞く耳を持ってくれる場合が多いです。

 

そういった人の意見は自分のためにもなるし、もしお互いに誤解があれば、こちらも理論立てて説明をすれば、分かり合えることがほとんどです。

 

こういう人たちのことは、自分と意見が違うからといって“敵”だと決めつけずに、誠実に対応することが自分のためになると思います。

 

 

そしてもう1パターン、気にすべきタイプの悪口があります。

 


それは、悪口による実害があるタイプです。

 

 

これに対する対処法は単純です。

 

とりあえず、通報しましょう。

 

 

自分が戦おうとしてはいけません。
それぞれの場合に応じて、しかるべきところに通報する。
これで充分です。

 

実害があるなら遠慮はいりませんので、どんどん通報していきましょう。

あいつも通報、こいつも通報。
自分が潰れてしまう前に、行動することが大事だと思います。 

 

 

 

2.やり返したい時は?


ところで、陰口・悪口を言ってきた人に対して「やり返してやりたいな」と思ったことはありませんか?私だけですか?

 

とりあえず、ここでは私と同じく復讐心のある人もいるとして、アドバイスを記しておこうと思います。

 

 

 

(ⅰ)武力で報復するのはダメ

 

わかりきった内容ですみません。(2回目)
でも、相手がどんなに嫌な奴だったとしても、蹴ったり殴ったりで報復するのは完全にアウトです。捕まります。

 

あと、悪口を言い返すとか、アレコレ根回しして社会的に抹消するみたいなのもダメです。
怖いことは基本的にダメです。

 

 

「やられたらやり返す」

うん、その気持ちも勿論わかるんだけど...
でも、それをやっちゃえば、結局同じ穴の狢になっちゃうんですよね。

 

 

泥だらけの相手を殴ったら、自分の手も汚れてしまうわけで。
それって、嫌じゃないですか。
どうしてそんな奴のために、自分の手まで汚さなきゃならないんだって思うわけです。

 

 

泥がついたら洗えばいいじゃん、とか、そんな簡単な話でもない。
腐った相手と同じことをした時点で、自分の手も心も腐っちゃうんですよね。

こういうのを、負の連鎖って言うんだと思います。

 

ちょっと大きな話をすると、結局戦争とかだってそうやって報復合戦として続いてきた歴史があるわけで。
武力での復讐ほど、不毛なものはないと思うんです。

 

 

それなら、一体何をもって相手に復讐すればいいのか。


その一番の方法を、最後の項目でお伝えします。

 

 

 

(ⅱ)一番の復讐法は○○

 

答えは単純です。

 

 

それは、自分が幸せになってやること。


これ一つだけです。

 

 

たとえばの話、ある会社にものすごく嫌味な部長さんがいたとします。
その部長さんは、いつもどこでも他人の悪口ばかり。
そんな彼が、ある日新入社員のA君を散々に罵倒しました。

 

「お前はこんなこともできないのか。
全くどうしようもない。無能な奴だ。
お前なんか一生平社員として書類整理でもしていろ」

 

ところがどっこい。
そんな悪口によって復讐心に火がついたA君は「今に見てろよ」と、これまで以上に熱心に仕事へ取り組みました。

 

その結果。

 

数年のうちにA君は昇進を重ね、その会社の社長さんにまでなりました。
部長さんは部長さんのまま、今となってはA君の部下になって、書類整理をさせられるようになったのでした。


おしまい。

 

 

さて、この話を聞いてどう感じたでしょうか。

 

 

部長さん、悔しいですよね。
自分が見下していた相手に追い抜かれて、こき使われるようになって。
自分が過去手酷く馬鹿にすればした分だけ、惨めで情けない結末になると思います。

 

 

しかもこれはまだ優しい方で、実際にはこんな嫌味な部長さんは部長さんのままではなくて、いずれ降格して誰も見向きもしない人になると思います。

 

というのも、実際に
「人の評判を落とそうとして悪口を言うと、言った本人の評判が悪くなるだけである」
という実験結果があるのです。

 

 

このように悪口を言った人は、自分が手を加えなくても、勝手に人が離れて自滅するようになっています。

 

 

そして、そんな嫌な奴の言うことをものともせずに自分の幸せを勝ち取った人は、結局その相手を見返すようになるんです。

それが、相手にとっては武力より何よりもの復讐になります。

 


自分を傷つけた奴なんて放っておいて、自分は自分の道を行けばそれでいいだけの話。

理不尽な言葉のために足を止めてやる必要なんてないし、自分まで汚れてやる必要もない。

 

相手がどんなにあなたを罵倒したとしても、結局自分さえ気にしなければ、あなたはきれいなままです。
汚れるのは、暴言を吐いた相手だけ。

 

 

だから、そんな奴のことは気にしなくていい。
やり返そうともしなくていい。

 

 

相手は口汚くあなたを罵った時点で自分で自分を汚しているんだから、すでに報いを受けているようなもの。
今は偉そうで強そうに見えたとしても、結局そんな人は改心しない限りどんどん人が離れていきます。

 

 

あえて自分が手を出さなくたって、時が経てば経つほど、やったことの報いを受けることは決まっているから。
そんな報復は時に任せておけばいい。

 

相手が勝手に自滅していくその間に、あなたはあなたの道を進んでやれば、それでいい。

 

 

そうしてあなたが幸せになる姿が、あなたをけなした相手への一番の復讐になるから。

 

他人の目が気になる人へ

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他人の目ってさ、気になるよね。
 
周りが自分のこと、どう思っているのか。
 
もしかして嫌われやしないか、
笑われやしないか、と。
 
気になり出すと、
心はオロオロ、落ち着かなくなる。
 
 
この国では、“世間体”が大切で。
人と同じであることが求められるから。
 
周りをよく見て、周りに合わせて
生きていくことが当たり前になっている。
 
 
そのことを、ただ一概に悪いとは思わない。
 
人は自分だけじゃ生きていけないし、
周りをよく見て、思いはかって生きることはとても大切なことだ。
 
そして、人一倍周りに気を配って
他人を思いやることができるのは、
この国の長所でもあると思う。
 
 
けれどもそれが行き過ぎて、
自分を押し殺してまで人や社会のために生きようとすると、
それはやっぱりしんどいんだ。
 
 
親の期待や、学校の教え、
上司からの評価や、その他もろもろ。
 
 
周りの目を気にするうちに、
「自分の意思<周囲に求められること」
が当たり前になってしまったら。
 
結局は自分を見失い、
何をしたいのかさえ分からなくなってしまうんだ。
 
 
 
でもさ、よくよく考えてみたら、
他人の目って、本当は重要じゃないんだよね。
 
 
他人がどうこう言おうと、
自分の人生、自分のものじゃないか。
 
 
他人が「イイ」って言ったからって、何なのさ。
他人が「ワルイ」って言ったからって、何なのさ。
 
あの人にとってイイことは、私にとってもそうだとは限らないし、
私にとってワルイことは、あの人にとってもそうだとは限らない。
 
 
あの人と私は、別の人。
あの人の人生と私の人生は、全くの別物だ。
 
こんなにも当たり前のことなのに、
分かってないから、いつも周りを気にしてばかりいる。
 
 
私は私、あなたはあなた。
大切なのは違いを認め合うことであって、
同じになることじゃない。
 
同じになる必要がない。
 
 
周りの目を気にして、
周りに合わせて、
周りの言う通りにして生きていく人生は、
いつまで経っても自由じゃない。
 
せっかくの自分の人生、
他人がどうこう言おうが、
自分で選んだ道を進んでこそ未練がないんじゃないか。
 
 
私の人生、あなたの人生、
同じだから良いんじゃない。
 
私の人生、あなたの人生、
それぞれ違った味があるから、
価値があるんだ。
 
 
他人の目なんて、気にする必要はない。
 
 
自分の人生、
勇気を持って、自分らしく生きていこう。

生きづらさの根本的原因とは?

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こんにちは。ナナチル(@burytheold)です。
 
 
 いきなり本題ですが、
人が生きづらさを感じる時って、色んな要因がありますよね。
 
 
人間関係がうまくいかないとか、
家庭や学校、会社等の生活環境が居心地悪いとか。
 
外的要因、内的要因、人それぞれ本当に様々あると思います。
 
 
でも、その様々な要因のうち、
一番大きな問題、根本的な原因
があるとすれば、それは一体何でしょうか?
 
 
その答えは、
ズバリ自分自身の考え方の問題だと思うんです。
 
 
人はあるストレスを受ける時、そのストレスに対する考え方次第で、前向きにも後ろ向きにもなれますよね。
 
例えば、AさんとBさん、2人の人に同じストレスを与えてみるとします。
ここでは試しに、ネチネチした上司の嫌味をぶつけてみましょう。
 
 
【Aさんの場合】
 
上司「キミ、なんだねこの書類は。誤字脱字だらけじゃないか。キミはこんなこともできないのかね」
 
Aさん「あっ、すみません...。やり直します。
(私ってこんなこともできないんだ。私は何をやってもダメなやつなんだ...。)」
 
 
【Bさんの場合】
 
上司「キミ、なんだねこの書類は。誤字脱字だらけじゃないか。キミはこんなこともできないのかね」
 
Bさん「あっ、すみません...。やり直します。
(しまった、今回はうっかりしてた。次からは気をつけよう。)」
 
 
こんな感じで。
同じストレスを受けても、Aさんは上司の一言で自信を喪失してしまい、Bさんは次回からの教訓にするようになりました。
 
 
これと同じく、人は考え方次第で、ストレスや環境をプラスにもマイナスにも変えられることがほとんどです。
 
 
理不尽な環境に置かれたって幸せな人は幸せだし、どんなに恵まれた環境にいたって不幸な人は不幸な考えに縛られて生きていく。
 
 
結局、それは環境が恵まれているかどうかではなく、自分の心が満たされているかどうかがもっと大きな問題だということです。
 
 
もちろん、全部が全部考え方や心の捉え方の問題と言い切ることはできません。
 
本当にヤバイ人が身近にいたら避けた方がいいだろうし、
ブラック企業とかで死に際まで追い詰められているなら、どんな根性論で説得されてもさっさと場所を移した方がいいと思います。
 
 
確かに、身の回りの人間関係や生活環境は、人生を生きる上でとても大切なもの。
 
けれども、人や環境がどんなに恵まれていたとしても自分が幸せかどうかを決めるのは、やっぱり自分自身の考え次第です。
 
 
何をしても人の目が気になってしまったり、
 
心配や不安から解放されなかったり、
 
自分に自信が持てなかったり、
 
人や自分に対して否定的だったり。
 
 
そういった考えの癖=考えの歪みを抱えていると、どんな環境に置かれても苦しいんです。
骨格が歪んでる人は、どんな高級ベッドで寝たって肩が凝るのと同じイメージかなと思います。
 
 
だからこそ、生きづらさを克服するために最も重要なことは、自分の考え方を直すこと。
 
 
自分の考えはどこが歪んでいるのか、
 
どこを直せばいいのか、
 
どういう考え方をすれば生きやすくなるのか。
 
 
今生きづらさや考えの歪みを感じている人は、まずこのような感じで、自分の考え方を点検してみることから始めたらいいと思います。
 
 
考え方を変えることは簡単ではないけれど、直しておけば一生モノです。
 
人や環境は変えられても、結局自分の心と体はどこに行っても付き合うことになるから。
 
 
かく言う私も、まだまだ考えの矯正中です。
 
 
本当に自由な生き方・考え方って何なのか。
 
毎日新しいことを学んで、
 
毎日一歩ずつ挑戦して、
 
毎日自分自身を振り返ってみること。
 
 
いっぺんに変わろうとしないで、できることから一つずつ変化していけたらいいですね( *´ω`* )

【はじめに】このブログとナナチルについて


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はじめまして。ナナチル(@burytheold)です。
お目通しいただいて、ありがとうございます。
 
ここでは、当ブログのテーマと私自身についてご紹介できたらと思います。
 
このブログでは、一体どんなことを発信していくのか?どんな目的があるのか?
 
ナナチルって、一体どんなやつなのか?
 
そういったことに答えるために、
私自身のアダルトチルドレン(AC)としての生い立ちや克服のきっかけ、そして当ブログ開設に至るまでの経緯をお話したいと思います。

 
 
 

 

 

 

ブログテーマは「生きづらさの克服」

 
このブログでは、私自身がアダルトチルドレンを克服した経験をもって、自分らしい生き方・考え方・心と体の健康などなど、様々なことを発信していきます。
 
キーワードとしては、機能不全家庭、いじめ、ブラック企業、病気、精神疾患などへの関心が高いです。
 
が!ゆるゆるな日常記事も書いていく予定なのでお気軽にどうぞ〜

 
 

ナナチルってこんな人/プロフィール概略

 
【HN】:ナナチル
【出身】:神奈川県
【性格】:猪突猛進
【仕事】:新卒ブラック企業→給食のおばちゃん→現:作家
【趣味】:映画、演劇、歌、絵
【目標】:たいりょくをつけるぞ
【音楽】:宇多田ヒカル、BUMP OF CHICKEN
【映画】:ディズニー全般、チャーリーとチョコレート工場、ハウルの動く城、グレイテスト・ショーマン、きっと、うまくいく
【動物】:ダントツでペンギン一択
  
 
 

ACとしての生い立ち/生きづらさ

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周りはどこを見渡しても山と海。
 
私はそんな大自然に囲まれた、神奈川県のある田舎で生まれました。
 
山に行っては木から木へと飛び移り、
海に行っては素手でウニを割ってむさぼり食う...
幼少期はそんな感じでワイルドに生きてきました。
 
 
そんな私を外から見た人は、
「ただの田舎っぺゴリラ」と思うかもしれません。
 
でも、それは私のほんの一部です。(否定はしない)
 
 私には、ただのワイルドゴリラとはまた違った側面がありました。
 
 
それが、アダルトチルドレンとしての側面です。
 
 
※アダルトチルドレン(AC)とは。
元はアルコール依存症者の家庭で育ち、成人した人々を指した言葉です。
現代ではより広義な意味として用いられ、機能不全家庭で育った影響により自己肯定感が低かったり、生きづらさを抱えている成人のことも含まれます。
 
 
 
 
ACとして生まれて

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ここからちょっと空気が変わります。
 
 
私の場合は、生まれた時から母がアルコール依存症者でした。
 
若い頃からアルコール依存症だった母と、ちっちゃな会社の社長さんだった父。
 
ところが、父は医療ミスによってある手術の輸血時にがん細胞が入り込み、私が2歳になる前にがんで亡くなってしまいました。
 
 
遺されたのは、母と私と父の仕事の借金。
 
 
父が生きていた頃は、毎日細腕に大きな荷物と赤ん坊だった私を抱えて必死に看病していた母ですが、
父が亡くなってからは、水商売で働きながら徐々に心と体を壊していきました。
 
 
そんな母は、いつしか別の人と再婚し、そして離婚し、また別の人と付き合っては別れる、そんな恋愛を繰り返しました。
 
その姿を見ながら、私は子どもながらに「愛って何だろう?」と疑問を抱きつつ、母の愛情を得るため必死に生きました。
父を失った私には、母しかいなかったのです。
 
 
 
けれども、愛されるっていうのは、そう簡単なことじゃない。
 
それが特に、アルコール依存症者の家庭ならなおさらで。
 
 
 
母はお酒を飲んでいない時には、美人で優しくて料理も上手で、まさに理想のような母親でした。
 
 
けれども、一度お酒を飲めば、その姿は一変。
 
 
顔はやつれて尖った目をし、ご飯は作らず、毎日言葉のナイフとその腕を振り上げ、私の心と体はボロボロになっていきました。
 
 
 
「あなたがいるから離婚しないのよ」
 
「あなたのせいであの人と別れたの」
 
「あなたのせいでお酒を飲むの」
 
 
 
そんな言葉を聞くたびに、心はぎゅっと押しつぶされました。
 
 
 
そして、いつしか私は「ごめんなさい」が口癖になり、母や皆が苦しむのは全部自分のせいなんだと思うようになりました
 
 
自分はいるだけで害になる存在ならば、いない方がいいのかもしれない。
そう思って何度も屋上から地上を見下ろしては、柵を越える一歩手前で生きることを諦めきれませんでした。
 
 
 
「やっぱり、死にたくない」
 
「愛されたい」
 
 
 
そんな灯火のような心で踏みとどまって、何とか愛されようと、死にものぐるいで努力するようになりました。
 
 
テストで満点を取ること、
その次は学年1位になること、
その他にも生徒会やあらゆる代表に立候補してみたり。
私は目に見えて“よいこと”をしてきたつもりでした。
 
 
 
その結果。 
 
 
 
やっぱり、母は、私に見向きもしてくれませんでした。
 
 
 
元々要領なんて良くないから、一つ一つ、必死に勝ち取ってきた功績たち。
 
けれども、母は相も変わらず酒を飲み、私を認めてくれることはありませんでした。
 
 
 
「それなら、
 
それなら、
 
せめて母じゃなくても、
 
他の誰かでも私を愛してくれないか」
 
 
 
崩れ落ちそうな心を抱えて、それでも私は愛されるための努力を続けました。
 
 
 
「誰か一人に愛してもらいたい」
 
「誰か一人に認めてもらいたい」
 
 
 
けれども、愛されようとすればするほど、何をやっても空回り。
 
私には、どこに行っても居場所がありませんでした。
 
 
 
家族には何をやっても認められず、
 
学校では家庭の事情を悟られないように、馬鹿みたいにふざけては本当の自分がわからなくなりました。
 
バイト先ではいつもミスを連発して、要領の悪い自分にうんざりしながら、心を殺してひたすら謝り通す毎日。
 
何をしても惨めで情けなくて、自分が恥ずかしくてたまりませんでした。
 
 
 
「人から愛してもらうことって、どうしてこんなに難しいんだろう」
 
「ただ、愛してほしいだけなのに」
 
 
 
そんな私に変化が訪れたのは、高校2年生の時のこと。
 
こんな自分を認めてくれる、ある一人の先生に出会えたことがきっかけでした。
 
 
 
 

自分らしさを取り戻したきっかけ

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その先生は、なんというか飾らず素朴な人でした。
 
背が高いとか顔がいいとか、全然そんなんじゃなくて。
 
でも、いつもありのままの正直な姿で、一人一人に真摯に向き合ってくれました。
 
 
 
「私はこれがすごいんだぞ」
 
っていう自慢話じゃなくて、
 
「私は最近こんな失敗をしたんだ。
でもね、そこからこんなことを学んだんだよ」
 
なんて自分の弱さを語りながら、
 
様々な問題をどう乗り越えたらいいのかを教えてくれました。
 
 
 
その飾らない姿が、いつも真っ直ぐでイキイキとしていて、私にはとても輝いて見えました。
 
人から認められようと、いつも他人の顔色を伺ってビクビクしていた私とは、全く正反対だったんです。
 
 
 
そして、いつしか私もこんな風に生きたいと思い、その先生から様々なことを学ぶようになりました。
 
 
 
人生の生き方や考え方。
 
困難への立ち向かい方。
 
諦めない心。
 
そして数えきれないくらい、多くの大切なことについて。
 
 
 
そうやって新しいことを学んでいくうちに、私は徐々に縛られていた考えが紐解かれ、生きづらさを克服していくようになりました。
 
 
 
自分にはない言葉を学ぶことで、自分の考えが変わる。
 
考えが変われば、行いが変わる。
 
そして、行いが変われば生活が変わり、人生が変化していく。
 
 
ああ、だから、言葉って偉大なんだなぁと、この時実感しました。
 
 
 
そして、その言葉と同じくらい大切なことが、実践すること。
 
 
 
どんなに威力のある言葉でも、実践が伴わなければ意味がありません。
カッコイイことを言ったって、綺麗なことを言ったって、実体が伴わなければ、それはただの理論であり空想です。
 
 
 
もしその先生が口先だけで、言ってることとやってることが矛盾してるような人だったなら、私は耳を傾けることもしませんでした。
 
 
 
けれども、
 
彼がどんな綺麗事でもその言葉の通りに実践し、
 
私の弱さも足りなさも認めてくれたこと、
 
私というひとりの人間を、ありのままで信じてくれたこと。
 
それによって、
 
私も、彼の言葉と私自身を信じられるようになりました。
 
 
 
「人は、何ができなくたって、価値がある。
 
うまくできなくたって、価値がある。
 
あなたが生きて、
ただそこに存在しているだけで、
他のものとは絶対に代えられない価値がある。」
 
 
 
そんな、そんな、嘘だろう、と。
 
 
人は誰しも価値があるなんて、よく言うよね。  
 
でも、言うのは簡単でも、実際はそうじゃない。
 
こんな出来損ないで、ボロ雑巾のような私には該当しない言葉だ、なんて思っていました。
 
 
 
でも。
 
 
 
彼が、私に真実に接してくれる姿を見ていたら、いつしか否定できなくなっていた。
 
 
 
そして、そうやって自分を一番否定していたのは、他の誰でもなく自分自身だったのだと気付かされました。
 
 
 
自分を一番愛せなかったのは、自分自身。
 
一番認められなかったのは、結局自分自身だったんだ、と。
 
 
 
誰にも認められなかった自分の価値を、
たった一人の人が認めてくれた。
 
そのことで、
私はやっと自分の価値に気づくことができました。
 
 
 
そして本当の自分の価値がわかった私は、もう他人に愛されるために必死になることがなくなったんです。
 
 
そうして、他人の評価に左右されない“自分らしい生き方”を、一歩ずつ歩み始めました。
 
 
 

生きづらさを抱える人へ

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“生きづらさ”の原因は、様々にあると思います。
 
でも、その中でも最も大きな原因の一つが、まさに「自分の価値がわからない」せいではないでしょうか。
 
 
人は不思議なことに、自信があるとできないこともできてしまったり、逆に自信がないとできることでもできなくなってしまったりするものです。
 
私自身、自分の価値がわからなかった時には、いつも自信がなくて失敗ばかりでした。
 
 
けれども、自分で自分を認められるようになってからは、驚くほどに世界が広がっていきました。
 
 
諦めていた進学ができるようになったり、
 
挫折していた演劇の夢が叶って舞台に立つようになったり。
 
さらには、
あれだけ愛されないと思っていた家族とまで和解することができました。
 
 
もちろん、人それぞれの状況がありますから「私ができたから皆も必ずできる!」なんて乱暴なことは言いません。
 
それでも、“自分の価値”一つを本当に認められるようになれば、他のあらゆる可能性まで開かれていくということは、紛れもない事実だと思います。
 
 
 
では、「自分の価値がわからない人」とは一体どんな人でしょうか。
 
 
 
「自分が嫌いだ」という人、
「自分の短所は思い浮かぶけど、長所は思いつかない」という人は沢山います。
 
もちろん、そういった人たちも自分の価値を見失っている人だといえるでしょう。
 
 
 
でも、実は「自分の価値がわからない人」というのはそれだけではありません。
 
 
 
例えば、
「私は恋人(友だち)に好かれているから価値がある」とか
「自分は○○ができるから価値がある」という考え方を持っている人は、要注意です。
 
 
もし、その恋人や友だちを全て失ってしまうことがあったら、どうでしょうか?
 
あるいは、
もし、ある日事故や病気になって、何もできない体になってしまったら?
 
 
そういった変わりゆくものに価値基準を置いている人は、ある時全てが崩壊する恐れがあります。
 
 
大事なことは、
誰に好かれているとか何ができるということではなく、
何があっても、自分の根本的な価値を心の底から分かって認められるかどうかということです。
 
 
 
私は、自分ひとりでは、決してその価値を見つけることができなかった。
 
それを教えてくれる人に出会ってはじめて、私は、私の人生が生きられるようになりました。
 
 
 
「だからこそ、今度は私が、あの人のようになりたい」
 
「あの人のような言葉と実践を、他の人にも届けられるようになりたい」
 
 
 
それが、私が言葉を発信し始めたきっかけです。
 
 
 
今も生きづらさを抱えている人たちが、一人でも多く自分らしく生きられるように、何かしていきたい。
 
そのために何ができるかは、正直なところまだわからないけれど。
 
 
 
でも、今私ができる一番のことは、自分が学んできたこの言葉を発信することだと思っています。
 
 
 
誰かに好かれようだとか、
 
誰かに認められようだとか、
 
そんなのいいじゃないか。
 
 
 
他人が願う通りにではなくて、
 
自分が自分らしく、
 
素敵に生きられるなら、
 
それがいいじゃないか。
 
 
 
そんな生き方の一歩を踏み出せるように、発信していけたらなと思っています。
 
 
 
「たかだか23歳が何を言っているんだ」と言われたこともあります。
 
確かに私自身はまだまだ未熟です。
 
けれども、私は、私をここまで生かしてきてくれた言葉には自信があります。
 
だから、私は発信することを止めたりはしません。
 
 
 
万人に受け入れられなくたっていい。
 
たった一人の心に、たった一言を届けられたらそれでいい。
 
 
 
応援してくださる方々から、いつもとても力を受けています。
 
つたないことは百も承知だけれども、
私は自分が学んできた言葉を、これからも必要としてくださる人の元へ届けられたらと思います。
 
 
 
それが、私にできる恩返しだと思うから。
 
 
 
 
 
なんてね( *´ω`* )
 
ここまでハードル上げといて何ですが、きっと何でもない日常の記事も書いていくと思います。
料理とかペンギンとか。
 
なので、読む方も書く方も気楽にできたら~って感じです。
 
 
それでは、まだまだ至らないところもあるかと思いますが、これからどうぞよろしくお願いします。
 
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました(*^^*)
 
2018.08.11
 
 
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